動物の保護と研究と売買と間引き

簡単な本ならあっという間に読めるもんですね。読むのが早くなってきた気もしますが。


さて、動物の売買についての本なので、その是非はもちろんあるのですが、世の中「保護!保護!」と叫んでいながらいろんな問題を抱えてはいるものです。


先日ニュースでエゾシカが増えすぎて、林を食い荒らすというのが話題になりました。
http://hokkaido.nikkansports.com/news/f-hn-tp6-20071212-294689.html
知床半島の自然を破壊する、ということでエゾシカの間引きが必要になりました。増えすぎると増えすぎるで弊害もあるのです。


また、調査捕鯨の船に抗議をした海外の環境保護団体の話もありました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080204-00000039-san-soci


さて、生き物は絶滅するのが自然なのかしないのが自然なのか。これは何をもっても「自然」とは言いがたいことだと思います。人間の活動はいまや「自然」とは程遠い次元にあるようにも感じますが、「ヒトが知能を持ち発展を遂げた」ということを「自然のなりゆき」と言ってしまえばこれは地球にとって「自然」なあり方でもあるのです。そうなれば、急速に進む環境破壊や動物の絶滅という事態も、自然の成り行きであると考えられなくもない。「自然」の定義の仕方という視点もあるでしょう。


エゾシカの例のように、動物は自然の中で暮らしていながら、自然を消費して暮らします。これはヒトも変わりません。ただ、そのエネルギーがでかいか否かという側面もあります。動物は地球に還らない物質を使ったりもあまりしないので、それも一つとは思いますが、かならずどこかで何かを消費せねば生きていけないのも現実なのです。動物を飼うに当たって、生きた虫とか、ネズミとかを餌に与えなきゃいけない、という話です。


エゾシカは植物を食い荒らしてしまっています。どっちを大事にするかというのは地球からしてみれば「生き残った方」といった感じなのかもしれませんが、人間からはそういうわけにいきません。人間の価値観を持ってして、より残すべき方を残すために一方を管理の枠の中に収めます。


鯨に関してもそうですが、既にいくつかの種類の鯨は鯨自体の危機的状況は回避され、今度は生態系の危機的状況に問題がシフトしています。ようは、鯨さんたちが増えすぎて、魚やその他の海産物を食べてしまい、海の生態系が変わってしまう、という状況です。そのため、私達が食べる魚を確保するには鯨を間引く必要があります。


また、鯨を例に挙げますと、鯨の保護の中で、獲っていい例に、民族による捕獲は良し、というものがあります。多くの環太平洋の島々で生活を送る原住民達の生活に必要な分の鯨類は獲っていいということです。これは、彼らが乱獲をするものではないところや、それをもって巨万の富を築くという類のものでもないのです。
彼らの多くは積極的な捕鯨をあまりしません。鯨はでかくて強いのです。イルカも素早く、人間が水中で簡単に太刀打ちできるとは思えません。多くは死んだ鯨が浜に打ち上げられることから鯨にありつけます。彼らはそんな鯨を「神のもたらした恵み(使い」」としました。鯨の各パーツはそれはそれは見事に全部使われます。肉、骨、髭など、全ては何かへの利用が可能ということで、それらは生活に必要な物資なわけです。


さらに触れると、日本でもそうした鯨の完全利用の文化がありました。それに対して、鯨の部分利用しかしてこなかったのが西欧やアメリカでした。彼らの多くは脂肪から取れる鯨油を求めていたので、それらの国の捕鯨船は鯨油を貯蓄しておく構造しかもっておらず、鯨解体の技術なども余り高くありませんでした。日本に開国を迫ったことで有名なペリーは黒船ということは皆さん記憶にあると思いますが、捕鯨船団だったことはあまり記憶に留められていないと思います。
西欧の鯨の乱獲は技術の進歩により進みます。より早い船やより強い武器のおかげで捕鯨のスピードが一気に上昇。おかげで、先述の原住民達が得られる鯨の恵みは減少。日本にも流れ着いた鯨を利用する文化や鯨を近海で獲る文化がありましたが、近海に鯨を見ることも稀になってしまうほどの乱獲ぶりだったようです。


そんなわけで、もし、ヒトの生み出したものが「人工的」とされるとすれば、全時代的な鯨の利用文化や原住民達の暮らしは「自然」なのか「人工」なのか。「自然を守る」という大儀は必ずしも「今あるものを守る」こととはまた違うのだと思います。


殺しの文化、というものがあります。多くの国で死刑の執行方法がまちまちですが、先進国であればあるほどその執行はスマートで問題のない殺し方にしなければいけません。私の聞いた中では、執行をした者の感情や精神も守るために、執行者は3人でそれぞれ別の部屋に入り、全員が死刑囚に繋がるスイッチを持たされ、同時に押す、というもの。すると毒が廻り死ぬそうですが、執行人の持つスイッチはどれか一つが本物でそれ以外はニセモノ。もちろんそれを確める術を執行人は持っていないので、「自分がやったんじゃない」となるわけです。殺すことに違いはないので、こうして文章化するとそれはそれで残酷な方法だなとも思います。


世界の「死」について考えるとき、「残酷」ということが重要な意味を持ちます。憲法の無い国が先進国と認められなかった明治時代の日本のように、まともな国なら殺し方も一流でなくてはならないのです。これは刑の執行などをはじめ、動物を狩る際にもあてはまります。鯨の狩り方です。


日本は鯨を獲る立場です。そのため、鯨を何らかの形でしとめなくてはなりません。「殺すのがかわいそう」という話ですが、その際も最大限にスマートな殺し方を要求されます。古今東西、苦しむのはご法度。それが人間であっても動物であっても。私だって嫌です。そうなると、一撃で確実に苦しまずにというのが必要であり、日本の捕鯨船はそうした装備をもってして確実に急所を狙い、その即死率も高い、という話です。これが果たしてかわいそうか否かという話はもうすでになんか間違っている気もしますが、前述の通り、鯨も増えてしまっています。


動物はペットショップで買ったり、動物園で見たりもします。彼らはお金で売られてきています。最初からそこにいたわけではないですし、そうして飼育されてもいろいろなストレスとかを感じてしまいます。ヒトが禿げるように。


動物が増えすぎてしまったときに、殺すと言う形で調整するわけですが、では動物園とかにじゃんじゃん送ったらよいではないか、とも思えるのですが、そこでもいろいろ問題が起きます。自然の中の方が幸せだとか、実際に飼育するにはとてもじゃないが大変すぎるとか、色々。そしてそれを統括するのがワシントン条約や各種の国からの方策です。増えすぎても自由に輸出入のできない場合は殺すしかなくなってしまうものもいるでしょう。かといって、足りないのに需要があったりもする。需要があるから足りないのか。


実際どうするのがいいのかなんてわかりません。人間側が考えるいろんなもののバランスを保つために数を管理するのがよいのか、放りっぱなしにしてなんとかするのか。殺すのはかわいそう、だけど、ヒトの中で暮らさせるのもなんかかわいそう。ヒトが感情を持っているからこう考えるのかもしれませんが、動物に感情が無いとも言い切れないので困り者です。


ただ、動物達がいなくなったらヒトは困るはずなのです。食べ物や素材としてもそうでしょう。例えば虫がいなくなればいい、と考えている人は多いと思うのですが、虫がいなくなるとそれを食べて生きている動物達はどうなるでしょうか。また、虫達、特に蝶や蜂などが花粉を運ぶ植物はどうなるでしょうか。そして、そうしたものを食べている動物達はどうなるでしょうか。それらを食べる皿に大きい動物達も。。。と生態系は決して一つで成り立っていないわけですから、どこか一つがおかしくなると大変なのです。


あるいは、もし、動物達がいなくなってもヒトは大丈夫だとするならば、それを考えるためにも動物達を研究しなくてはならないかもしれません。それぞれに研究した結果、動物はいなくても平気だ、となるならばそれは一つの未来の形になるでしょう。


先進国は動物保護やら愛護やら疫病を防ぐためとかで動物の輸出入を禁止します。しかし、それが重要な手段である海外の国々も多くあるわけです。すべてが先進国のモノサシで動いているわけで、それが現代のグローバル化の実情です。


『動物の値段』の中でも触れられていましたが、私達が良く知る動物を、途上国の子供達は知らない。最近やっていたプラズマテレビか何かのCMで、テレビの前に集まってゾウを見る子供達をやっていましたが、あれがまさに起こっている。日本にいると便利でいろいろなことに気づきませんし、気づかなくても生きていけるのですが、やっぱり幸せってなんだろうって考えてしまうわけです。


動物は絶対何か考えていると私は思っているので、彼らの行動一つ一つが不思議でしょうがありません。ダンス☆マンの『ゴールデンかラブラドール』が大好きです。SoftBankのCMも。動物達は日々人間に何かしらの影響を与えられながら暮らしているとは思いますが、仲良くできたら幸せになれる気がします。ドラえもんの映画『雲の王国』に出てきた、言葉を翻訳するマイク(動物が喋っても翻訳可能)が開発される日を切に祈ります。