で、やっぱり覚書

どこに使うかわかりませんが勉強していて感じたことの羅列。


社会の人が下流化しているのは否めないように感じます。「ハケンの品格」なんかが象徴するように、派遣労働者が企業へ派遣されるなんていうのはもはや日常の当たり前の風景になっていることと思います。私のような学生にはまだ実感できませんが、既に社会でそれなりのオフィスで働いている人ならば確実に派遣社員と日々接しているはずです。なにせ、派遣社員は300万人を超えているようですし。フリーターの数も失業者の数も減ってきてはいるので、それなりに人が働ける環境が整ってきましたが、それらを後押ししているのは社会に存在する商品の価格の問題もやはりあると思うのです。


多分、今人々の消費を促している多くの趣味嗜好品はデジモノだったりするでしょう。携帯電話はDoCoMoも端末1台6万円の時代になりましたが、例えばiPodだとかDVD・ブルーレイのデッキとかテレビとか。石油価格高騰で生活必需品に関するものは物価が上がりつつありますが、趣味に関するグッズ、特に今の人が大量に食いつくタイプの商品はそれほど大きな買い物になるようなことが無いように感じます。そうした中で、ある程度所得が少なくとも自分を満足させられるだけのものを買い揃えられる時代なのではないでしょうか。


テレビが高かった時代があると思います。今はより安い値段でいくつもある商品の中から選べます。昔は選べませんでした。消費の楽しさが選ぶ楽しさも担っているとすれば、別段高い商品を買わずとも、定額の商品の中で比べて買うことができます。これはオーディオ機器について思ったことで、スピーカーについて検索していると、「昔はそんなに所得の無いOLでも、音楽が聞きたいとなれば、10万のスピーカーに、7万のアンプ、5万のレコードプレーヤーだった」という文章を見たからでした。現代なら再生機器は例えばパソコンで間に合いますし、もしもちょっとオーディオを選ぶという満足を得たいのであれば、ミニコンポから好きなものを選べます。都市化と核家族化の中で都心に広い家をもてない人にはそういった小さなインテリアで充分ですし、音に並大抵でないこだわりが無ければそれで選別の満足感は充足されます。


これは多くの商品にいえることで、家具とか服とか、多用な価値観が先なのか階層化や格差の拡大が先なのかは議論の的になるところですが、ライフスタイルによって様々に選べる時代です。流通のインフラや工場の海外移転などをはじめとした価格競争で、国内に安い商品が出回ることとなりましたが、それは消費文化と言う意味で、「安物買いの銭失い」から、「安物コレクション」という新しいジャンルの趣味嗜好を生むきっかけともなったと思います。


イヤホンやスピーカーの安物ばかりを買い集めては楽しむ人がいます。ギターやエフェクターも然り。ジャンク品やリサイクル品と言う名の出自不明の商品で楽しむ人がいます。それらを集めるお金で数十万のいいものが買えたのに、という話ですが、それとこれとは別の次元であって、安いものを買って楽しんでいるわけです。そこに「違い」があるから楽しいわけで、楽しくなければそんな無駄なお金の使い方はしません。


この「違い」というものが現代社会が生み出したもっとも大きな価値観なのだと思います。みんなが同じモノめがけて進んでいた時代から、自由が利くようになると次第に違いを求めていったのです。求めていったと言うよりは、製作サイドがもっと違うものじゃないと売れない、と考えたことも一つでしょう。結果、人々は選び出します。あれはここがこうだからダメだ、こっちの方が自分にはあっている。こんな風に自分と他人と商品という中からそれぞれに違うパズルをとっかえひっかえ当てはめてみて、自分にぴったりのものを探すようになりました。


そうした楽しみ方で充分人生を楽しめるのはひとえに物の値段が安くなったことだと思います。物の値段が安くなったと言うよりは、日本人の稼げる賃金がよくなったということなのでしょう。ただ、一時期に比べるとみんなが同じラインではなく、かなりばらつきを持ち始めている。しかし、安い中にも「違い」のある商品がこれだけ出回っていれば、その階層の人たちを消費にとどめておけるわけで、そうなるとそれ以上の生活を求める必要もないので、そのまま格差が広がっていく、なんてこともあるのかもしれません。


これはよくよく考えてみると和田秀樹さんの『「新中流」の誕生』(中公新書ラクレ)で言われていた、「新中流」論と同じかなと思ってしまった。日本の中流からちょっと上くらいに強いブランドを作らないと、そこへ向かってみんなが消費しないよ、ということで。「絶対そうなった方が良い」とは思わないのですが、この本で言っているのは、日本から新しい商品が生まれにくくなっていること、日本人がヨーロッパなどの海外ブランド品を消費することでヨーロッパが潤っていること、日本人が生活に使うものを中国をはじめとするアジア諸国で作られた安いものでまかなっていること、という側面から、日本の国力の低下を懸念している、と言った風です。かなり乱暴に言っているので間違いもあると思いますが、私の覚えている限りそんな内容でした。ただ、実際にそういう消費生活であることは多くの人が感じていることと思いますし、そういう意味では日本の円はみんな海外に吸われて日本人が日本にお金を払っていないわけです。給食費だって払わない人がいるわけですし。日本人が日本にお金を払わなくなったら、日本はどうなってしまうのか。それ以前に、それというのは日本という国に生まれてなんとも思ってないのかということにもなります。


私はナショナリズムとかそういうのと無縁の生活をしているしがない日本人ではありますが、やはり日本のことはちゃんと外国人に伝えたいと思いますし、文化の認識と共有というのがグローバル化の一つの側面でもあると思うのですよ。文化人類学的なテーマにもなりかねませんが。


私も安いものの中に違いを見出して楽しむ方なので、やっぱり「下流」っぽいのかもしれませんが、楽しみながらも私の周りの環境にお金を使うことも忘れてはいけないと思います。家族とか友人とか。逆にいえば、結婚とか教育とか生活とかにお金がかかるので、安いものの「違い」はそうした中で趣味を楽しみたいサラリーマン向けなのかもしれません。それはそれで新しい「中流」の嗜好かなと。