社会運動論感想文

 まず、強く思ったことが、「シアトル1999」という出来事のあったことへの驚きであった。私の世の中への関心の薄さが原因でもあっただろう。しかし、こうした国際的な会議を前にして、世界各国から抗議のために人々が終結し、一つの目的を果たしたという行為に大きな感動と、なぜ知らなかったのかという落胆を感じた。
 活動やそれを記録した映像の大きな論点は「グローバリズム」であったが、その波はもちろん日本にも押し寄せている。東京は世界的な大都市と呼ばれてはいるが、少し都心を外れれば「シャッター通り」一歩手前の町に出くわす。投機マネーの世界だ輝かしく描かれる中で失われていくものに光が当たりにくい。
 日本の所得税はその税率を引き下げにかかっている。それに対して消費税を増税しようという動きがある。累進度の高い所得税を下げることで富裕層からのお金を減らし、絶対的な数字として貧困層にとって高くつく消費税を上げている。
 こうした規制の緩和などをはじめとするグローバル化が、資本の移動という意味での富の上昇をもたらしたとしても、それは非常に不安定な富の上昇であると私は思う。日本でもそれは例外でなく、食料自給率は依然として低水準であるし、地場産業は後退する一方である。工場などを海外へ移すことで国内向けの商品の質が落ち込むことや、日本人の嗜好として、国内産製品よりも海外製品に消費がシフトして国内消費が落ち込むなどといった懸念もある。
 日本にはまだ世界的な大企業が存在している。これが一つはそうした問題に安心感を抱かせていることになっているように感じる。途上国などで問題とされていた、資本の集中などで経済をぼろぼろにされるという自体が起こりえたのは、途上国であるがゆえ、基幹産業や国内の生産力というものを高い次元で実現できなかったゆえのダメージであったと思われる。
 しかし、日本の経済がいつまでもそうした力をもてるかといわれればそうとも考えられない。決して途上国のようにはならない、といったことはないのであるし、そうした途上国の惨事が日本の経済によっても引き起こされているとすれば、私たちは加害者であると考えざるを得ない。
 国際関係がより複雑になっていくにつれて、その国の問題を直接国家に訴えたところで、国際関係上難しい、という問題も増えていると感じる。グローバル化がそれぞれの世界をより一つにまとめる力を持ったのであれば、そこに住む人々もより一つにならざるを得ない。相手が国家間をまたぐ構造である以上、その活動は自然と国を国を結びつける運動になっていくように思う。
 半期の授業を受講してみて思うのは、社会運動はその目標を達成することが一つの大きな目的だが、それを通じて社会に存在する通念や構造に疑問を発すること、そしてその疑問や問題をみんなが「おかしい」と感じられる意識を人々に持たせるという重要な活動であるということだ。社会が何かしらの形を持って存在するときに、その構成員である人々が不利益をこうむったり、何か問題を抱えてしまうことに対して「否」を発すること、そしてそれを後押しするだけの人々の意識を育むことがとても大きな活動の意義であろうと思う。
 ビデオの最後で「希望のもてる社会」という言葉が出てきたが、人々が「変えられる」「幸せになれる」という希望をもてる社会というのは最終的に目標とされて良いのだと思う。
 日本人が今希望をもてなくなっている。たとえ景気が上向きになろうと、雇用の格差や、そこから生まれる様々な不平等が是正されにくいと感じられている社会の雰囲気になってしまっている。こうした社会の雰囲気に「変えられる」という気分を持ち込むことも運動の示せるものの一つではないだろうか。
 先日の薬害肝炎の訴訟や、それより以前の自動車会社を相手にした健康被害の問題などをはじめ、多くの闘いがなお日本でも起こっている。
 個人的な興味で動物・生物学や生態学から転じて環境や地理・気候の分野まで最近は興味があるのだが、その中で、立花隆の『環境ホルモン入門』(1998 新潮社)を読む機会があった。その中で次のような一説がある。立花隆環境ホルモンを対象としたゼミを開くにあたって学生に放った言葉だ。
 「この環境ホルモンの問題というのは、若い人が真剣に考えたら、暴動を起こしたって不思議ではないくらいの問題を含んでいると思うんですよね。だってきみら、いまとんでもない目に合わされているんだよ。(中略)生まれたばかりの男の赤ちゃんを全部集めて、百人に一人の割合で、そのオチンチンをチョン切るなんてことを国が決めたりしたら、どこの国だってたちまち暴動が起きるよ。この問題で『いまただちに健康に被害が起こるわけではない』とか、『因果関係がはっきりしないから手のうちようがない』といった、使い古された弁解を並べるだけで何もしない政府は、それと同じことをしてるんだよ。(中略)環境を汚しっ放し、収奪しっ放しにして、あとのつけを、みんな君らの世代にまわしているわけだ。そんなの、『乱痴気騒ぎがすぎてちょっと部屋を汚しちまいましたが、あとはよろしく』というわけだ。そんなの、『ハイハイ』といっていわれた通りにするのはバカで、『ふざけるな』といって、逃げようとするやつの首に縄をつけて引きずりもどし、『自分で汚したところくらい、自分で掃除しろ』とぶっ叩くべきなんです」
 これは、ダイオキシンが生まれてくる子供に対して精子の数を減らすなどといったホルモン作用に対して、学生に強く言っているわけだが、なるほど、これくらい強く言われなくては、わたしたちは普段生きていてそうしたことを言葉でどこかに覚えてはいても、自分のことじゃないと思ってのうのうとしている。
 同じことが社会運動論の授業を受けていても感じた。そして、社会運動に参加していない自分はいかにダメな人間か、という葛藤まで感じた。弱い立場の人が困っているのに、なんの助けもしてない人間がどれほどダメな人間であるかなどと考えた。
 しかし、それぞれがそれぞれに生きている以上、自分の生活も一つはしっかりしなくてはならない。これは私個人だけでなく、私を取り巻く家族や友人のことも含めてそうである。
 だが、社会で起こっていることに無責任になってはいけない。そう考えに至ったことが半期の授業を受けて、一つ前進したことである。私にはまだ社会運動に参加したり援助をしたりと言った力はない。だが、せめて無責任・無関心になることはやめよう。社会の出来事としてそれを受け止め、できる限り何かしらの発信をしよう。Webで情報発信するでも、友人・知人とそれを話題に話をしてみるでも、少しでも問題を社会の構成員が共有できるように。その中からより強い助けや連帯が生まれるかもしれない。