ウッドストックフェスティバルとアメリカの解放運動

レポートのための覚書です。

1969年の8月、アメリカのニューヨーク州においてウッドストックフェスティバルが開催された。ヒッピーによるヒッピーのための「お祭り」であったこのイベントは今なお輝かしい歴史として語り継がれているが、その実際は時代のカルチャーのるつぼとして突然に農場の真中に現れた「災害地区」である。「災害地区」と言う表現は「ウッドストック」のドキュメンタリー映画ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間』でも使われているが、イベントの内情が「人が集まりすぎて交通網が機能しなくなっている」「そのため集まった若者が飢えに苦しんでいる」「寝泊りする場所も無く地べたで生活」といったものであったからそう表現されているだけであった。イベントには40万とも50万とも言われる若者が集まった。3日3晩音楽が鳴り止まなかった。各地から若者向けの雑貨屋やグッズ屋が集まった。そんなイベントであり、この3日の間、この会場は一つの「町」であった。
このフェスティバルは60年代の終わりの年、60年代最後の夏に行われたわけだが、一つの時代の区切りであろう。60年代はアメリカのベトナム戦争への本格的な介入の真っ只中であり。人種差別、女性差別からの開放といった、それぞれの属性からの人間の解放が叫ばれた時代であった。そうした時代背景の中で若者を中心に広がったムーブメントが"ヒッピー"であった。
彼らはぼろぼろの服を着て、髪や髭を伸ばしに伸ばした。酒やタバコやセックスやドラッグをやった。それも開放的に、自由に。自然を愛した。自分らしさを求めた。愛や平和を謳った。そしてインド等をはじめとする東洋的思想を取り入れた。それらは全て大人の社会や体制に反抗するものだった。もちろん、このいわゆる"流行"と言ってしまっても良い若者達のライフスタイルは、全ての若者においてその思想的な思惑があったとは言い切れないし、現にそうではなかった。しかし、一部の―ある意味では過激な―グループによるその徹底した"ヒッピー的生活"はメディアで報道され、社会の中で人々の目に付き、社会的には「異様な若者」と人くくりにされてしまうという意味では全ての若者がそういう対象であった。また、そうしたムーブメントの中で「ウッドストック」に出演したアーティスト達も生まれた。彼らは先導者としてそこにいたのではなく、ムーブメントの中から出てきた"一つの形"に過ぎない。
ウッドストック」に参加したアーティスト達の多くが体制に対抗する形の姿勢を見せていたが、それらはこうした"ヒッピーイズム"という土台の中で形成されたものであり、それらはそれぞれのアーティストに特有な形で存在している。日本の"べ平連"運動でも盛んに歌われた「風に吹かれて」だが、この歌を歌い、この時期ちょうど来日も果たしたジョーン・バエズがプロテストソングの代表として挙げられる。ジョーン・バエズの父は物理学者であったが軍需産業への協力を拒否したという。これが彼女のバックグラウンドには横たわっている。また、彼女は反戦運動家と結婚をした。「ウッドストック」の前に、彼女の夫はベトナムへの「徴兵拒否」が理由で州の刑務所へ入れられた。このことは「ウッドストック」のステージで彼女自身が告白した。そして彼の好きな歌を歌った。


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