イメージ

人間の体というのは面白いもので、様々に適応していきます。最近は一生懸命ギターを触っているのですが、訓練をするとちゃんとその部位がよく動くようになったりするわけです。逆に、人間やったことのない動きはできないわけです。しかし、面白いのはただ単に動かしているだけではやっぱり効果は中々得られず、意識を常に向けることでそれが顕著に発達するということです。


人間は脳を使って色々なことをしています。なので、ギターの練習といえど常に、今どの弦のどの辺りをどんなピックの当て方でアップピッキングかダウンピッキングかみたいなことを意識していると、ただのクロマチックの運指練習が2倍3倍の効果を発揮してきます。


人間はイメージをします。他の動物は知りません。とりあえずわたしは人間なのでイメージをします。しかし、イメージはイメージであって、それ以上ではありません。


自分の歩き方とかを歩いていないときにイメージできますか?


イメージではまるでモデルのように歩いていたとしても、実際の自分はどうでしょうか。人間なので自分の理想とかそういうものがあるわけですが、理想というのは例えば誰かから与えられたもの、既にモデルがいてそれに憧れて追いかけているもの、ああいう人になりたい、というものだったりもするわけですが、理想どおりには中々いかないものです。


歩き方の例ですと、現状ではイメージと実際にはギャップがあるわけです、そのギャップを感じられずに自分は理想どおりいられている、としたらそれは本当にそうなのかもしれないか、あるいは全くイメージ通りじゃないかのはずなわけです。そのイメージと実際の行動のギャップを埋めるのが訓練となるわけです。人間のアクションに限定すれば、間接の曲がる限界とかある程度の骨格・体格的な制限という与えられた状況の中で、訓練次第でそれはイメージ通りにすることが可能なはずです。


そのイメージに近づけるには、まずなりたいイメージが生まれなくてはなりません。なりたいモデルが既に実在しているのであればその映像をしっかりと脳に焼き付けたり、歩き方であればどういう風にに歩きたいかをイメージしなくてはいけません。次に、イメージと自分の実際のアクションを分析します。できているできてない、できていないならなにがダメか、といったことを分析します。次に、どうしたらイメージ通りになるのかをシミュレートします。腕の振り方とか足の上げ方を脳内でシミュレートするわけです。そして、最後に実際にやってみる。しっかりと意識しながら体を動かす。意識して動かせるようになったら無意識にできるまで反復練習をする。当たり前のことを言っているような気もしますが、意識をすることが大事だと思います。


これは客観的に自分を見て、分析して実際に行動に移せる、という意味で社会的な側面も持つと考えます。他人に対する行為という意味でも、自分のイメージと現実とのギャップというものを客観的に分析して意識した上でまた行為する、ということです。


運動の苦手な人は自分のアクションをうまく脳でイメージできない人、イメージができても実際のアクションとのギャップを取り除けない人だとわたしは思います。運動が苦手という人は「上手い・下手」ではなく「できる・できない」だからです。逆上がりができないのと、できるけど下手、上手にできるは違うわけです。できない段階の人は、脳で考えて、行動に移すという部分が弱いと考えます。それには訓練が必要です。下手・上手に関してはさらに上の次元での脳の開発や身体の訓練が必要になると思います。


これをコミュニケーションで言うなら、苦手な人は自分のことを上手くイメージできないかイメージができても実際のアクションとのギャップを取り除けない、となります。自分の現状にしてもイメージにしても今までの生活で経験的に後天性をもって出来上がってくるものです。よって、まず自分のイメージや現状をちゃんと脳に描けること、それを分析すること、意識すること、その上で他人と関わること(訓練すること)、その先でまたイメージしたり分析すること。この繰り返しだと考えます。社会の中での自分の立ち位置、という話になれば、それは例えば日本の中でということに始まり、その中で男か女か自分の着ている服のブランドは世間的にどういうイメージか、とか全てがある一定の規範の中で語られていくわけです。自分の行動が社会の実情との間でどの程度ギャップがあるか、ということです。


まあようは小馬鹿にだけはされたくないなってことです(ぁ